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執筆者の写真Satoshi Murakami

Ryuichi Sakamoto: CODA

注:ネタバレあります。


まずは、予告編はこちら。


観ている間、ずっとニヤニヤしていた。気がする。

なんせ、被写体として映し出されている坂本龍一自身が割とずっとニヤニヤしていたもんで、つられて顔がほころんでしまっていたんだと思う。


いや、「ずっと」ではないかな。

ポスターには『これは最終楽章のはじまりなのか』という、まるで「人生の終わり」を連想させるような刺激的なコピーが付いているし、ガンを患った彼が苦しそうな表情で薬を一粒ずつ飲みくだす様子(薬、まとめて飲むの苦手なんですかね?)や、被災地を訪れた彼が目の前に広がる光景に呆然としている様子も映し出されている。「原発反対!」のメッセージを伝えるため、国会前で声を発する様子もある。そんな風に、シリアスな問題に向き合う、シリアスな彼の表情もしっかり捉えられている。


しかしその一方で、音と、音楽と向き合っている時の彼の表情は、基本的に「ニヤニヤ」してて、なんだかとても嬉しそうなのが印象的だった。


あー、ほんとうに音楽が、というより、音が、好きなんだなー。と感じた。



頭にかぶったポリバケツにあたる雨音に耳をすませて、ニヤニヤ。

森や街を歩く自分の足音をハンディレコーダーで録音し、ニヤニヤ。

森の中に落ちていたドラム缶を木の枝で叩いては、ニヤニヤ。

ヴァイオリンの弦でシンバルをいろんな風にこすって、ニヤニヤ。

北極の氷の下を流れる水にマイクを沈めて、「音を釣ってます」と言ってニヤニヤ。


聞いたことのない音を求めて、試行錯誤を繰り返すその姿は、

いかにもマニアで、正しく変態的で、羨ましくなる。


いったい彼には、それらの音がどんな風に聴こえているんだろう?と思ってしまう。


もちろん、レコーダーで客観的に録音された音は、ひとつだ。雨音も、雪や氷の音も、シンバルの音も、それぞれはデジタル録音された単一のデータに他ならない。再生機器やスピーカーやヘッドフォンの能力によって、聞こえる音に変化はあっても、データそのものは同一のものだ。が、そこから何を受け取るかは人ぞれぞれで、その内容は聴く側の受信能力に依存する。これは避けられない。避けようがない。


そしてきっと、坂本龍一という人は、ひとつの雨音から、ひとつの足音から、たとえば私が受け取るよりもはるかに多く、はるかに豊かな、音の面白さを受け取っているんだろうな、と、その表情を見ていると思えてくる。

もちろん、そう思うこと自体が、「坂本龍一」という一人の人間を、我々凡人とは異質な、特別な才能の持ち主だと信じたがるファンの願望に過ぎない可能性もあるが、でもやっぱり、我々よりもはるかに広く深く豊かに音の世界を楽しめる人でなければ、現行の最新作である『async』のような音楽は生み出せなかったんだろうなー。


クラシックピアノを学び、西洋音楽的な作曲法を学び、

YMOでは人間が機械に「同期」した演奏で音楽を生み出し、

ソロになってからはより積極的に世界中のさまざまな音楽を咀嚼し、

非西洋的な音楽性も取り込み、

時にはピアノという一番身近な楽器に原点回帰し…と、

自身の音楽性を拡張させてきた「坂本龍一の音楽」の最新進化形が

『async(=非同期)』というのは、まさに必然的だと感じた。


思えば、1つ前のスタジオアルバムである『out of noise』も

『async』とは真逆に思えるタイトルだが、

坂本龍一にとっての「ノイズの外側」「ノイズ以外」は

こんなにも広くて豊かなのか、という驚きがあったが、

『async』は明確にその延長線上にある音楽だ。


では、『async』の延長線上には、どんな音楽があるんだろう?


…というのを、単純に1ファンとして、楽しみにしております。






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