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  • 執筆者の写真Satoshi Murakami

ノクターナル・アニマルズ

更新日:2017年11月24日

注:ネタバレあり。


スーザン(エイミー・アダムス)は、アートギャラリーのオーナーとして成功し、若くハンサムな夫(アーミー・ハマー)とともに経済的には何不自由ない豊かな暮らしをしているが、その暮らしに幸せを感じていなかった。そんなある日、スーザンのもとに、20年前に離婚した元夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から『夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)』と題された小説の原稿が送られてくる。表紙をめくると、そこには「スーザンに捧ぐ」と書かれていた。

夫が出張に出かけた日の夜、スーザンが小説を読み始めるとそこには、繊細だったエドワードからは想像もできない暴力的な物語が描かれていた……。



ちなみに予告編はこちら。

いやー、それにしても、エイミー・アダムスとジェイク・ギレンホールはほんとにすばらしい役者さんですよねー。


というワケで、本作は、成功を手にしながらも心は満たされない現在のスーザンと、彼女が読む小説の中の世界と、その小説を書いた元夫エドワードとの過去、という、虚実入り混じった3つの時間軸が並行して描かれる多層構造の映画なのですが、観てて混乱するような部分はほとんどなく、映画自体は非常にスッキリと綺麗に整った印象でした。


そんな本作の監督と脚本を手がけたのは、あの超ラグジュアリーブランドのデザイナーでもあるトム・フォード。監督デビュー作の『シングルマン』(2009)に続いて本作が2作目ということになりますが、わずか2作目にしてこの混乱のなさ、このスタイリッシュさに、個人的には驚きました。

その雰囲気を無理やり彼の本業に結びつけるなら、まさに彼がデザインしている、近年の『007』シリーズでダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンドが着こなすモダンでタイトで超クールなスーツのように、無駄な要素は極力排しつつ必要なものはきちんと残すべく、丁寧に計算された感じがしました。


いや、まあ、そりゃーたしかに、キャストもスタッフも優秀な人が揃っているからこそできることであってトム・フォードひとりの力じゃないでしょーよ、などと多少はひがみたくなる部分はありますよ、ええ。そもそも『シングルマン』で映画監督デビューって話を最初に聞いた時には、え?あのトム・フォードですよね?ファッションデザイナーとして申し分ない見事なキャリアを積み重ねていらっしゃるガチの超絶リア充リッチピーポーの方ですよね?そんな人がなぜ映画を?と、思いましたけど、

いざ『シングルマン』を観てみたら、ガチのリッチピーポーだからこそ、ガチのファッションの世界でサヴァイヴしてきた人だからこその、自分なりの美意識への執着が衣装にも美術にも構図にもきっちり込められていて観てて心地よかったんですよね。

そりゃまあ年間ベスト級とか生涯ベスト級ってほど刺さったワケではないですが、「16年連れ添ってきた恋人を失った初老の男が自殺を決意する、とある一日の物語」という、非常に小さな世界での、個人的な心の揺れを描いたミニマルでささやかな物語をデビュー作の題材として選んでくるあたりも、その描き方も、「何か一発ぶちかまして爪痕のこしたる!」みたいな浮き足立ったところがまるでなくて、「あーなるほど。この落ち着きこそ、実績をつみ重ねて成功してきた人の自信がなせる業なのかもしれないなー」と思ったんですよね。


今回の『ノクターナル・アニマルズ』においてもその印象は健在で、とにかくこのトム・フォードという人は、「自分にできること」と「自分がしたいこと」の見極めをきっちりして、その範囲内でベストを尽くそうとする、とても明晰かつ冷静なタイプの映画作家なんだと思いました。


では、トム・フォードにとっての「できること」とは何か?といえば、それはやっぱり、ガチのリッチピーポーの世界をリアルに描くことであり、またそれとは対照的な、自分が生まれ育ったテキサスの荒涼とした雰囲気を描くこと、なんでしょうね。

本作の冒頭に登場する、ぶよぶよの脂肪とセルライトに覆われた太った女性たちの舞い踊りアートや、スーザンの豪邸の庭にある巨大なシルバーのプードルや、スーザンの部下や同僚や友人などが着ている奇抜な服など、われわれ平民から見れば、たしかに金はかかってそうだけど「え?これがアートなんですか?」「え?それ必要ですか?」「え?それは本当におしゃれなんですか?」みたいなものがたくさんあって、この「下々の人には理解できない独特な美意識の世界」がとてもリアルで、これはその世界を知ってる人じゃないと出てこないよなー、というものが画面に溢れてて、しかもそれらがより一層、スーザンの心の空虚さを強調(アートギャラリーを経営しながら、現代アートなんてただのガラクタだと言ったりね)しているので、単なる賑やかしにはなってないんですよね。

一方、生まれ育ったテキサスの雰囲気は、まったくもって現実に起こってもおかしくない恐怖を描いたエドワードの小説の舞台として、うまく使われています。


では、この対照的な二つの世界と、それらをつなぐ「スーザンとエドワードの過去」という3つの世界を通して、トム・フォードは何を描きたかったのでしょうか?


それは「幸福はもう過ぎ去ってしまった」という感覚なんじゃないかと思います。


現在のスーザンは仕事で成功し裕福な暮らしをしていますが、心は満たされていません。自分の仕事の意味も価値も楽しさもやりがいも見出せず、私生活に目を向けても、今の夫はどうやら自分を心から愛している訳でもなさそうだし、浮気してるっぽいし、自分も心から夫を愛してるとは言えなさそうな雰囲気だ。

そんな時に小説を送りつけてきた元夫エドワードとは、最終的に離婚することになったものの、そうなる前は互いの違いを愛せていたし、彼の才能や熱意も信じられていた。「過去」の場面で描かれる二人は、まだ経済的にもキャリア的にも満たされてはいなかったが、未来に向かって前向きで、幸福だった(この過去の場面のジェイク・ギレンホールとエイミー・アダムスは、おそらくメイクとCGによるシワ消しの合わせ技で若返ってるとは思うが、それを差し引いてもの魅力的な初々しさ!)。

しかし幸福な時間は長くは続かず、二人の関係は壊れてしまった。というより、エドワードの繊細さ、弱さに愛想を尽かしたスーザン自身が、壊してしまった。

それから20年が過ぎ、豊かで不幸な女となったスーザンのもとに届いた小説は、彼女がエドワードに与えた仕打ちを思い起こさせるものだった。彼女が彼にしたことは、こんなにも酷いことなんだと言わんばかりの、暴力的で残酷な物語がそこにはあった。エドワードの現在は描かれないが、彼も過去の傷から立ち直ることはできていないらしい。

結局、かつてはたしかに愛し合っていた二人は、彼女の選択の結果、スーザン自身は幸せを失い、エドワードは幸せを奪われた。その傷は、この先もきっと消えることはないのだろう。そんな予感で映画は幕を閉じる。


この物語の原作は、オースティン・ライトの小説『ミステリ原稿』(原題は『Tony And Suzan』で現在は映画に合わせて『ノクターナル・アニマルズ』というタイトルで邦訳が出版されているようです。 )。私自身は未読なので、今回の映画化に際し原作からどのていど改変されているのかは分かりませんが、

ともあれトム・フォードは、監督2作目の原作にこの物語を選びました。

思い返せば、デビュー作の『シングルマン』も、愛する人を事故で失い、生きる意味を見失う男の物語でした(こちらの原作は、クリストファー・イシャーウッドの同名小説)。


両方ともトム・フォードのオリジナルではなく、他人が書いた原作ものです。であれば、候補は無数と言っていいはずですが、その中でトム・フォードは1作目に『シングルマン』を選び、2作目に『ノクターナル・アニマルズ』を選びました。

その両作に共通するのは、「現在の主人公が、とうに過ぎ去った幸福な過去を回想する」という形式です。


その感覚を描くことこそが、トム・フォードの「したいこと」であり、今の彼の生活実感なのではないでしょうか?

まだわずか2本のフィルモグラフィーで、今後どんなものを撮っていくのかは分かりませんが、なんとなくそんな気がしてしまいます。


彼にとって、「幸福」は常に過去にあり、現在は、後ろを振り返って、かつての輝きを眺める場所でしかないのでしょうか?

「成功者の孤独」とはよく言いますが、ファッションデザイナーとして成功し、確固たる地位と名誉を手にし、貧しさからは遠く離れ、さらに映画監督としてのキャリアも順調に歩み始めている彼自身も、傍目からはどんなに満たされているように見えても、幸福を感じられずにいるのでしょうか?


だとしたら、その孤独や哀しみは、共感し理解してくれる人が少ないぶん、また、暮らしそのものは裕福で、「きっとこんな悩みは贅沢ななんだろうな」と自分でも思えてしまうぶん、とても根深いものかも知れないなぁ、


と、そんなことを思いました。



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