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  • 執筆者の写真Satoshi Murakami

『蛇とぬけがら』 #001

 ガラス戸と網戸を開けてベランダに出る。置きっぱなしのサンダルを履き、後ろ手でガラス戸を閉めると、死にかけの子猫の鳴き声のような音がする。死にかけの子猫の鳴き声を聞いた記憶はないけど。まぁそのへんはなんとなく、イメージで。昨日取りこみ忘れた洗濯物がそよそよと揺れている。さすがにもう完璧に乾いてるはず。それにしても、同じサッシの上を往復しているはずなのに、開ける時には鳴らなくて、閉める時にだけ変な音が鳴るのはどうしてなんだろう。ちゃんと掃除してないからかな。埃のたまり方にでも原因があるのかな。いや、埃だけじゃなくて黄砂とかPM2.5とかも溜まってるのかも知れない。こんど掃除するときはちゃんとマスクを着けて軍手もして、変なものを吸い込まないように気をつけながらやろう。埃やなんかを巻き上げないようにするには掃き掃除よりも拭き掃除かな。霧吹きでサッシ全体を濡らしてから拭けばいいか。でも隙間の狭いところは雑巾が入らないな。そこは歯ブラシでこすればいいか。あ、でも、そういう時のために取っておいた使い古しの歯ブラシ、ちょうどこの前捨てたばっかりだったっけ。いや、この前捨てたのはもっと前で、それからまた何本かたまってたっけ。まぁいいか。あとで確認しよう。そもそも「こんど」がいつになるかも分からないし。

 柵に両肘をついて外に目を向ける。景色の左半分は、すぐ隣にあったマンションが取り壊されたおかげで遠くまで見渡せる。無数のマンション。アパート。雑居ビル。一戸建て。それらが、規則性があるようなないようなとにかくごちゃごちゃした感じで延々と広がっている。右半分は、綺麗めのマンションと古めのマンションが間近に迫っていて、その間も高速道路の断片でふさがれている。もし右側の空が見たければ、ほぼ真上を向かなければならない。左側であれば、その苦労は必要ない。時折、車が通り過ぎる音がする。

 心地よい風が吹いている。暑くもなく寒くもない、ちょうどいい温度。薄い雲の向こうから差している西日も、眩しすぎなくてちょうどいい。

 手にしていたスマホをエアコンの室外機の上に置き、柵の上のところを鉄棒みたいに握る。想像よりも少し冷たい。軽くジャンプして、宙に浮いた身体を両腕で支える。ぶかぶかのサンダルは両足からするりと抜けてベランダの床に落ちる。勢いをつけて、片足を柵の上に。それを外に出して、柵に跨がる。内ももに柵の冷たさが触れる。両腕のうぶ毛が逆立つ。のこりの脚もベランダの外側に持ってくる。柵をぎゅっと握りしめたまま、ゆっくりと身体を下ろす。裸足のつま先がベランダの端に触れると、少しほっとした。

 私は今、ベランダの外側に立っている。柵をつかむ両手とベランダの端に引っかけているつま先以外、私の身体は地上十一階の空中に浮いている。両腕を伸ばし、背中を反らせて、顔を真上に向ける。終わりかけの夕方と始まりかけの夜が空を分け合っている。さっきより少しひんやりした風が、スカートと髪を揺らしながら通り抜けて行く。そのままの姿勢で、何度か深呼吸。吸って。吐いて。吸って。吐いて。吸って。止める。高速を走る車の音が消える。

 斜め懸垂の要領で腕を勢いよく曲げて身体を起こし、ほぼ直立になったところで柵をつかんでいた両手を離す。つま先だけが身体を支えている。ほんの一瞬の静止のあと、身体はすぐに後ろに、っていうか下にひっぱられ、はるか遠くの地面に向かって倒れ始める。両手が届くか届かないかのぎりぎりで、柵をつかむ。

 成功。

 全身が心臓になったみたいに脈打ち、手のひらに汗がにじむ。視界には、下から順に、十二階と十三階と十四階のベランダの柵。屋上の端っこが描く横一文字の直線。そして、夕方と夜が融けあう空。めいっぱい溜め込んでいた空気をゆっくりと吐き出しながら、それらが見えていたことを思い出す。

 呼吸を整えて、もう一度。

 両腕と背中を伸ばした姿勢から勢いよく身体を起こして手を離す。ガラス戸に映る、愚かな遊びに興じる自分。一瞬の静止。あ、そうか。ベランダに出る時はいつも後ろ手でガラス戸を閉めるから、普通に開け閉めする時とは力の加わり方がちょっと違っちゃって変な音がするのかも。もちろん、あくまでたった今思いついただけの仮説だから、正解かどうかは分からないけど。まぁいいか。気をとり直して、一瞬の静止。の直後。つま先を支点にして、身体ははるか遠くの地面を目指して倒れ始める。

 そしてまた、届くか届かないかのぎりぎりで、柵に手を伸ばす。

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